ただの育児本ではなかった【今日からしつけをやめてみた】

しつけとは、大人の都合に子どもを合わせる、いわば「調教」。それをやめてみようというこの本を突き詰めると、大人である私たち自身の問題が見えてきました。

こんにちは! 元テレビマンで二児の母、じゅりちゃんです。

世のパパママの皆さん、育児本は読みますか?
私はめったに読みません。
理由は、長子が定型発達ではないため、定型発達を基本にしている育児本を読むと、不安を煽られるだけだと思ったからです。

実際、いわゆる「異常」がわかったとき以降の妊娠期間は、ググってばかりでろくなもんじゃありませんでした。
しまいには、分娩台の上でもスマホでググってたくらいで、情報に翻弄された、散々な妊娠後期でした。

だから、生まれてからは、情報に踊らされるのはやめようと思いました。
そんな私が今までに買った育児本は2冊。

柴田愛子/監修・あらいぴろよ/マンガ「今日からしつけをやめてみた」

栗原泉/著「ブレない子育て」

どちらも良い本ですが、今日は1冊めの、「今日からしつけをやめてみた」を紹介したいと思います。

そもそもしつけってなんだろう?…ズバリそれは調教

怒られてばかりだった子ども時代

私は長女で、弟が2人います。
それはまあ、怒られない日はないというくらい、怒られて怒られて、すっかり萎縮した子ども時代でした。
そのおかげか今でも、人の顔色を窺うことがクセになり、甘えるのがめちゃくちゃ下手です。

怒られる理由はだいたい、「他人様に迷惑がかかる」でした。
自分の祖母がおもちゃを買ってくれるというので買ってもらったら、帰ってから母親にコテンパンに怒られたエピソードは、今でも恨みが深いです。

「なんでおばあちゃんにねだったの!?」と言われましたが、そもそもねだったのではなく、おばあちゃんの方から買ってくれると言ったんだし、自分からねだったとしても、実の祖母にねだることがそんなにいけないことなんでしょうか?今、客観的に考えると、あまりにも理不尽で、自分が不憫になってきます。

数多いる「いい子」の典型例で、私は子どもらしい振る舞いをそんなにすることもなく大人になりました。
いじめに遭ったときも親に言わなかったのは、親の顔色が変わるのが嫌だったからです。
きっと、「わかりみ〜」とうなずいてくれる方、多いのではないでしょうか。

自分の親に感謝することは、思春期以降は私をコントロールしようとすることはなく、放任主義で自由にさせてくれたこと。
だから進路も好き勝手に決めて、親には事後報告、好きに生きさせてもらいました。
思春期以降も怒られ続けていたら、多分いろいろと耐えられなかったと思います。

大人にとって都合の「いい子」

「今日からしつけをやめてみた」の中には、様々な「親が子どもをしつけている場面あるある」が出てきます。それに対して柴田さんの解説が付くのですが、それが目からウロコな目線ばかりです。

そもそもしつけというのは、子どもを大人の都合のいいように調教する行為だと書いていました。
調教…あまり気持ちのいいワードではありません。

 

例えばよくあるのが、自分の使っているおもちゃを、他の子も使いたそうにしている場面。

親はよく、「貸して」「いいよ」をさせたがります。

ですが、2〜3歳の子どもが「貸して」「いいよ」を自発的に行うのは無理。
そもそもその年齢の子どもは、自分のことしか見えてなくて、他人を思いやるまで発達してはいない。

「貸して」「いいよ」は、親同士が気まずくなりたくないための、大人の都合。
「貸して」「いいよ」が2〜3歳でできたとして、それは、それをすれば親に褒められるからというだけで、本当に他の子を思いやっているわけではない。

 

なるほど!
では、もしおもちゃを取り合ってケンカになってしまったらどうすればいいの?

 

そんなときは、使えなかった子に対して、「本当は使いたかったんだよね」と気持ちを受け止めてあげることが大切。
そうすると、高ぶった感情が落ち着いて、ケンカをおさめることができるのだそうです。

う〜〜ん。
理屈はわかるけど。
そんなにうまくいくかなぁ。

と思いましたが、ここからは親が頭を捻ることなのかなとも思いました。

親が顔見知り同士なら、取り合ってしまったときに、すぐ介入せずに、お互いじっと見守るというのも一つの手かもしれません。
知らない親とそのような場面になるのがつらければ、芝生の広場など、取り合うおもちゃがない場所で遊ぶのもいいかも。
ひとまず、「2〜3歳児に他人を思いやる能力はない」ということがわかっていれば、取り合いになる場面での対応も変わってきます。

見かけの聞き分けがよくなっても、本当に納得していなければ、心にモヤモヤが溜まったまま。そんな状態が積み重なると、健全に発達しづらいでしょう。
社会性が身に付いて、他者と譲り合って使えるようになるまで、何十年もかかるわけではありません。

もちろん、最適解は簡単には出てこないと思いますが、明らかに発達に不相応な「貸して」「いいよ」を強要するよりも、別の方法を探すほうが、建設的だなと思います。

親も子も、ハードルは低くしよう

本には総じて、今行われている子育てから、ハードルを下げるような解説がついています。

小さな子どもはまだ動物に近いような、本能で生きている存在。
時間をかけて人間らしく発達していくのだから、大人の都合で早い時期から人間らしく振る舞うように求めてはいけないと書いています。

私も、子どもを怒ってばかりの状況に気づき、ハードルを下げまくって今に至ります。

YouTubeばっかり見て、お風呂に入ろうとしない娘にはカチンと来ますが、風呂に入らなくても死ぬわけじゃない。
「アトピーが痒くないなら、お風呂に入らなくてもいい」ということにしました。
痒いか痒くないかは娘の自己判断。
明らかに痒そうなのにYouTube見たさで嘘をついているようなときにだけ、「入らないと余計に痒くなる」と説得し、入るように促します。

そもそも、YouTube自体も良くないとは思いますが、YouTubeなしで、家事と並行して子どもを見るのは、私には不可能です(YouTubeのテロップで文字を覚えたりと、悪いことばかりではないというのもお伝えしておきたい)。

他にも下げまくって下げまくって、結局我が家のルールらしきものは3つだけです。

1)寝る前の歯磨きを忘れないこと
2)寝る時間が遅くなりすぎないこと
3)嘘をつかないこと

2)はよく破られがちなんですが…。

「好き嫌いせずに食べる」「残さず食べる」は、その日の気分もあるので、ルールにするとなかなか厳しいものがあります。
そういえばこの間ハンバーグづくりを手伝ってもらって、「全部娘がつくった」風の流れにしたら、「自分でつくったんだから残さず食べなきゃ!」と珍しく完食しました。
口でガミガミ言わなくても、手伝える年齢になって、汗をかいてみたらありがたみがわかったのかもしれません。

改めて書くとしつけからは程遠いけど、子どもを怒る場面は格段に減りました。

自分の精神衛生にも良い影響がありました。
「子どもを怒る→落ち込んで自分を責める→自分に新たなハードルを課してしまう」という負のスパイラルからは脱出したと思います。

味方を増やしておく

私が実践して、割とうまく行っていることがあります。
それは「周囲の人を味方につける」ということです。

私は、同じマンションの方に自分から挨拶をするようにしています。
隣や上下の方には、遠出したらお土産を持っていくようにして、顔見知りになりました。

「ご近所付き合い=余計なお世話・面倒くさい」という負の側面ばかりが先行しがちですが、実際はそんなに悪いことばかりではないというのが、感じていることです。

知っている家の子が騒ぐのと、知らない子が騒ぐのとでは、印象が違ってくると思うのです。

特に、下階の人には、足音などで迷惑をかけがちなので、「あそこんちの子どもは時々うるさいけど、悪い子じゃないからしゃーないな」くらいには持っていきたいところです。

実際うちも、上階のペットの足音が夜聞こえてきますが、住人の方もペットとも仲良しなので、「元気いいな〜」くらいにしか感じません。
誰が住んでいるかまったく知らなかったら、また別の捉え方になったと思います。

子どもを完璧に静かにさせるのは不可能なので、周りの方の受け取り方をプラスに変える工夫も、子どもを守る一つの方法ではないでしょうか。

顔見知りになっておくことは、災害などの際に、お互いの安全を守る策にもなり得ます。
めちゃくちゃ仲良くなくても、挨拶ができる仲になっておくことは、いろいろと良い面が多いと思います。

まとめ

今、この社会が生きづらいというのは事実だと思います。
少子化が原因で、大多数である大人の都合に、子どもを合わせがちになっているというのも、一側面。

私はそこには、社会が過剰に合理化・平均化したせいで、異物を認められなくなっているという、もっと大きくて根深い問題があるのではないかと感じています。

異物とは、子どもだけじゃなくて、突き詰めると「自分以外の人」です。
自分以外の人に迷惑をかけられたり、ペースを乱されるのは、正直面倒くさいけど、その逆も然りではないでしょうか。
自分だって他人にとっては異物で、迷惑をかけている。

何でも自己責任という言葉に置き換えて「迷惑をかけない」ことだけが受け入れられる社会を、自分が死んだあとも遺したいでしょうか?
私はそれよりも、「お互い様」の精神で、程よく迷惑をかけたり、かけられたりする社会のほうが、生きていてラクだから、遺していきたいと思っています。

「今日からしつけをやめてみた」は、育児本であると同時に、社会に対して警鐘を鳴らしているような気がしました。