軽やかに生きる「今」の捉え方

『愛と想像力』を胸に作り手の思いを届ける翻訳家として、広報・PR、新規事業開発、企画・制作などを生業としているKEIKOです。 本当に大切なものって何だろう。この2年、生き方と向き合う機会が増えた人も多いのではと思う。京都にある建仁寺両足院の副住職、伊藤東凌さんの話の中に、軽やかに生きるための「今」の捉え方がが見えた。

『愛と想像力』を胸に作り手の思いを届ける翻訳家として、広報・PR、新規事業開発、企画・制作などを生業としているKEIKOです。

今を、未来を変えていく力を、その姿から無意識に直感的に感じられる人は魅力的で、とても興味深い。
その力は、環境や立場の異なる多くの人にとって、気づきを与えてくれたり、何かのきっかけになるのではと思う。
今回は、そんな引力を感じる人物のうちの一人、京都にある両足院の副住職、伊藤東凌さんとの話の中で見えた、軽やかに生きるための「今」の捉え方について紹介したい。

様々な行動制限を強いられたこの2年。忙しさからほんの少し距離を置いて、多くの人にとって自分や家族、生き方について考える機会でもあったように思う。
東凌さんと話をしていると、宗教と密接に関わる生き方をしていない私であっても、禅をとても身近に感じられる。
禅はお寺に赴いて、特別に向き合うもののように思っていたが、そうではなく日常のなかにあるように自分事として感じられてくるのだ。
そしてその中に、今対面している迷いやストレス、不安などを捉える上で、多くのヒントがあるように思う。
この記事を読む方々にも、そのヒントが届いてくれたら嬉しい。

 

アートイベントに見る新しい京都の可能性

近年、京都では多くのアートイベントが開催されている。
歴史的な建物や寺院、商業施設など、複数の会場が設けられ、街としてアートシーンを盛り上げている。
伊藤東凌さんは、京都市東山区に室町時代から続く臨済宗建仁寺派の両足院の副住職で、これまで多くのアートイベントやアートプロジェクトに参画している。
今年記念すべき10回目を迎えたKYOTO GRAPHIE(https://kyotokyotographie.jp/)の始まりが京都のアート元年だったと東凌さんは振り返る。


※公式webサイトより

第1回KYOTO GRAPHIEは2013年に開催されている。
KYOTO GRAPHIEのシンボルカラーである赤色でデザインされたスタイリッシュなフラッグが京都の街中を彩った。
当時その様を見て、「かっこいい。。。なんで両足院は声がかからなかったのだろう。」と思ったという。
日本の歴史や伝統が色濃いこれまでの京都の打ちだし方にはなかったような、新しい京都の可能性を感じ、この翌年から、両足院はKYOTO GRAPHIEに参画し、今年で9回目となる。

お寺とアートは、一見、とても隔たりがあるように思うが、東凌さんの話を聞くと、なんとも親和性が高いということがわかった。

お寺でアートにふれ、人が開花していく

お寺は、発見力と共感力を養う場所でもある東凌さんは話す。
このあたり、もう少し掘り下げ聞いてみると、なるほど、この発見力と共感力に気づいたり、それを養う上での環境やコンテンツがお寺には揃っているということがわかった。

目に映るものや聞こえる音、香り、それらから思い起こされること、心にずっとひっかかっている物事など、私たちは、1日に4万回も思考するといわれている。
頭の中はいつもフル回転で思考しているのだ。そして、私たちはいつだって忙しい。
でも、この忙しく回転している思考は、一見自由そうに見えるが、頭の中は忙しくは動いていても、無意識のうちにあきらめてしまっていたり、その考えは止まってしまっていて、可能性に蓋をしてしまっていることがあると東凌さんは話す。

そういわれてみると、そうかもしれない。
ふと立ち止まって考えてみたら新しい道が開けた、という経験は、だれもが一度はあるのではないかと思う。
でも、この「ふと立ち止まる」ことが現代においては難しかったりする。
お寺はこれを物理的に可能にする場所なのだ。

「庭を眺めていた時にふと感じる風の感覚、聞こえてくる鳥の声。そんな小さなきっかけがフックになって、感性が開く。お寺の持つ空気や知見が刺激となり、とまってしまっていた考えが動き出して、開花していく。」ということだ。

お寺という静かで落ち着いた空間は、アーティストの挑戦や思い、感性を表現に落とし込んだアート作品と対話することができる場所として最適な場所のひとつなのだ。
アートはアーティストだけでなく、観る人を「開花」させるコンテンツとなり、訪れる人の感性に問いかける。

東凌さんは「お寺が、もっとできる、やさしくなれるといった、あらゆる可能性を取り戻せる場所として、訪れる人の感性を養う場所になれるといい。アートを観に行こう、学びに行こうと思って訪れてくれたら」と話す。

この話を聞いて、お寺を訪れることは、瞑想することに少し似ているように感じた。
目を閉じて視界からの情報を断ち、呼吸に意識を向けることで、あらゆる思考を手放していく。そうすることで心が静かになり、脳が休まっていく瞑想。
お寺を訪れることで、ひとたび外界と距離を置き、そこにいる間だけ、自分を取り巻くたくさんの思考を手放し、そこにある空間に心と体を置く。
そうすることで、ふと気づいたり、解き放たれたりする。
そこにアートがあれば、さらにその感性は開いていくのだろう。

映像的に生きすぎていて今を喜べない

現代人は忙しく、映像的に生きすぎていて、今を喜べないのだという。
「今」を捉える中に喜びがあるのだそうだ。
東凌さんが写真展に積極的に参画しているのにはここに理由があるようだ。

写真は一瞬を切り取ったものだ。
胸を打つ1枚や記憶に残る1枚が誰にでもあるだろう。
それらは、単なる一瞬の切り取りではなく、撮る者の意図や意思がある。
観る者は、1枚の写真からそれらを感じ取ることができ、撮った者の目になることができる。
写真は、一瞬のシーンの切り取りであり、一瞬の思いの切り取りでもあり、一瞬の強烈なインパクトを焼き付けたものだ。

「私たちは、過去を思い、未来を心配している。過去と未来をくっつけすぎて今を見ることが出来ず、今を喜ぶことができない。写真は、ある瞬間の喜びや思いを切りとったものとして見ることができる。最高の安らぎの場所、あの画像、あの風景に心を置くことができたら救われる。そういった一瞬の「今」をとらえることができれば、幸せを感じ、軽やかに生きてい行くことができるのではと思う。」と東凌さんは話す。

私たちが考える「今」は、一瞬よりも膨らんでいて、過去と未来を混ぜて見がちだという。
今を膨らまさないで未来を見る。今を破壊せずに未来を描く。
そんな感覚を、写真は見せてくれるのだ。

お寺を現代的に開く

近代的な建物の美術館などでのアート鑑賞も素敵だが、お寺でのアート鑑賞はそれとは違った趣があることがわかった。
単に素敵な場所に素敵な作品があるというだけない価値がそこにはある。

庭から感じられる自然の息吹と建物や習慣などの文化が溶け合う寺という空間が、感性を開き、小さな気づきを与えてくれる。
自分を開花させ、無意識のうちに作ってしまっている自分の可能性の蓋を開けることのできる場所なのだ。

かつてお寺は、人々に開かれ、誰にとっても身近な場所だった。
でも現代においては、お寺には敷居の高さを感じ、訪れる機会は少ない人が多い。
東凌さんが副住職を務める両足院では、アートイベントへの参画や写経体験など、お寺を現代的に開く様々な取り組みを展開している。

■京都両足院公式HPはコチラ↓↓↓
座禅体験・庭園の特別拝観などのご案内もコチラから。

https://ryosokuin.com/

両足院は庭の美しさに定評があり、池泉廻遊式庭園は京都府の名勝庭園にも指定されている。初夏の半夏生の開花に合わせて行われる特別公開では、多くの観光客が訪れている。
緑色の葉が一部を残して白くなる半夏生の花のような美しさも、訪れる人を咲かせてくれそうだ。

私たちから少し離れたところにあるように感じる仏教や禅を、東凌さんはいつもぐっと近くに感じさせてくれる。
日常の中に仏教を取り入れることができることを教えてくれる。

毎日を軽やかに生きていくヒントは、とても近くにあることに気づかせてくれる。